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障害受容について |
長年お世話になった某巨大掲示板が、本日をもって閉鎖になります。 最後に、「この過去発言好きでした」と言っていただけた記事があったので救出しておきます。 (見落としてる迷文まだありそうだなあ…ま、しゃーないw)
子どもの障害受容については、いろんな学説が出ています。
まず最初に提唱されたのは 「障害児が誕生することを親にとっての「期待した子どもの死」と見なし、過去の愛着の対象(理想の子ども)の喪が完成して、初めて現実の子(障害を持つわが子)との関係が形成される」という説でした。 そこから段階説という概念が発展しました。
ショック →否認 →悲しみと怒り →適応 →再起
という過程を経る、という説です。 一番有名で、長く提唱されてきた説です。
いま自分はこの段階にいるけれど、時が経てばいつか苦しみから抜け出すことが出来る。 それはひとつの救いをもたらす考え方ではあったと思います。 一方で、いつかは立ち直って、明るく楽しく前向きに生きられるようになる。そうならなきゃおかしい。 多くの人が、そう刷り込まれてきた。
けれども現実はそう簡単じゃない。 公園で楽しそうに遊ぶ親子、立派なスーツを着て出勤していく若者、 何かの拍子に胸に空いた穴に風が吹き抜けるように悲しみが甦る。 それもまた正常な反応なんですよ、というのが「慢性的悲哀」という説です。
でも障害児の親だって、年がら年中泣き暮らしているわけではなくて おいしいものを食べれば笑顔になるし テレビを見てゲラゲラ笑ったりもするし たまには子どもを預けて趣味や買い物を楽しんだりもするし
子どもの成長に目を細めて喜びを感じて 逆にああやっぱりと落ち込んだりして
「らせんモデル」の絵を見た時に、ああこれだと思ったんですね。 クルクル巻いたリボンの表と裏のように 肯定と否定は常にどちらも自分の中にあって、代わる代わる表に出てくる そして時とともに心の振れ幅は次第に小さくなってくるけれど “心の痛みは決して消えることはない”(『オランダへようこそ』より)
だから、前向きになれない自分を否定しなくていいんじゃないかなって思うんです。 こんな苦しい想いを抱えながら頑張って生きている私は偉い!って思えれば。
「私たちは実は、みんな後ろ向きに歩いているんですよ」って言った人がいたのでご紹介しておきます。これを読んだ当時、漠然と励まされました(笑) http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52245392.html
↓「らせんモデル」の出典 少し難しいですが https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/ld/z12020/z1202001.html
うちの子は知的な遅れはないですが 自閉度がかなり高いので 結婚はたぶん難しいだろうなと思っています。 もし、ものすごく奇特な人がいて結婚してくれたとして 子どもが生まれたら、私がしたのと同じくらい、あるいはそれ以上の苦労を彼女にさせてしまうのだろうな 私もだんだん齢を取るので、お手伝いしてあげるのも難しいんじゃないかな それは申し訳ないな、って思います。
我が子に幸せになってほしいとは思います。 けれども、何が幸せで、何が幸せでないかを決めるのは彼自身だから 親の価値観でどうこう言うことはしないでおこうと思っています。
『自閉症の僕が跳びはねる理由』という本の中で、著者の東田直樹さんはこうおっしゃっています。
「側にいてくれる人は、どうか僕たちのことで悩まないで下さい。 (中略) 僕たちが一番辛いのは、自分のせいで悲しんでいる人がいることです。 自分が辛いのは我慢できます。しかし、自分がいることで周りを不幸にしていることには、僕たちは耐えられないのです。」
相談者さんのお子さんも、きっと同じ気持ちだと思います。 だから、あなたのせいで私は不幸なんだとは決して思わないであげて下さい。
不利な手札しか配ってあげられなかったけれど それでも、思うようにならないからだとこころで頑張って勝負し続けている子たちを 応援してあげて下さい。
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