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破れ窓理論~イタリア大聖堂落書き事件に思う |
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イタリアの世界遺産である大聖堂に日本人が落書きした、ということが連日報じられている。
最初に発覚した女子短大生は、「ごめんなさい」「気をつけてね」程度のやりとりで済んだらしい。 二番目に発覚した京産大生は、大学の名前に傷が付くことを恐れたのだろう、学長が謝罪し(これもおかしな話!)、「自腹で現地に行って消して来い」などと言っているらしい。 そして3番目、高校の野球部監督は、新婚旅行の時の書き込みが見つかり、監督を解任されたそうだ。 一連の報道に対する世間の注目度、書いた側の社会的地位に応じてか、 「責任」の取り方が段々重くなってきている。
しかし当のイタリア側はこの問題をどう考えているのか。
そもそも最初の短大生の件、後から来た日本人観光客が「おたくの学生がこんなけしからんことを」と学校側に言ったことに端を発している。 京産大生の「みんな書いていたのでつい」というコメントを聞いた時にはあきれてしまったのだが、実際、大聖堂には各国語による落書きだらけらしいのだ。 日本語は1割程度とのこと。 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/157130/ もちろん、「みんながやってるから自分もやっていい」わけではない。 「世界遺産にこんなに落書きがあるなんてヒドイ」と眉をひそめるくらいの感覚は持ち合わせていてほしい。 だが、上記のような状況がある中で、京産大生がわざわざ日本からやってきて自分の落書きだけを消して、いったい何の意味があるのか? 反省するよりも、自分だけが貧乏くじを引いたという不満が残ることにならないか? 日本側がやると申し入れれば、イタリア側には断る理由はない、それでご本人の気が済むならどうぞご自由にと言うだろうが、 その飛行機代と滞在費を寄付して、現地の清掃業者を雇ってもらう方がよっぽどリーズナブルだと思う。 なんだか、日本人同士で精神論を振りかざして大騒ぎしているだけに見える。 身元がわかってしまった人たちだけが責任を取らされて、その他大勢は知らん顔していていいのか? 大聖堂の管理者およびイタリア当局は、このことをどれだけ問題視しているのか? 相手方に望まれない形で「謝罪」「責任」と言ってもそれはただの自己満足ではないのか?
「破れ窓理論」というのがある。 “「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」 軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。”(Wikipediaより引用、一部改変)ニューヨークのジュリアーニ市長がこの理論に基づき市内の治安回復に成功した話は有名だ。 落書きは確かにいけない。だが真っ白な壁にあえて書き込みをする勇気?のある人はそれほど多くないだろう。既に無数の落書きがありそれが放置されていれば、「ここは書いても良い場所」というメッセージを送っているのと同じことになる。
モグラたたき的に責任追及するよりも、この際心当たりのある人ない人、この問題を憂えている人同士でお金を出し合って、「大聖堂から落書きを追放する基金」でも作ったほうが、よほど根本的問題解決になるし日伊友好に貢献できると思うのだが。 (お金で解決するようでいやらしいようだけど、足手まといのボランティアがゾロゾロ乗り込むよりも、作業自体は専門性のある人にやってもらった方が良いと思うのよ。) ピント外れの責任論や個人攻撃でなく、もちょっと建設的な議論になってほしいと思う。
7/2追記 やはり現地では「厳しすぎる処分」と驚きを持って受け止められているらしい。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080701-00000158-mai-soci
確か富士山が世界遺産登録を却下されたのが 「ゴミだらけだから」という理由だったと記憶しているのだが、 どうやら落書きだらけなのは構わないらしい。
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