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「当事者」であり続けるということ |
カイパパさんのブログに「苦痛は、3分の1でいい」という素晴らしい記事があるのだが、 それを読んだからというわけではなく、私はあきのすけの将来を心配したことがない。 自分の子供の頃にも、「『十年後の自分』というタイトルで作文を書きなさい」といわれるとはたと困ってしまった覚えがあるから、多分「未来について考える」能力に欠けているんだろうと思う。 だから診断直後ぐらいの親御さんが「この子の将来が心配で…」とおっしゃるのを聞くと、なんだか不思議でもあり、また尊敬してしまうのだ。
さて、先日通園施設のOB会で他の保護者さんとお話しする機会があったのだが。 ある親の会の代表を勤めておられるYさんいわく、 「せっかく相談に行っても『しばらく様子を見ましょう』とか、療育園から保育園に移りたいのに移らせてもらえないとか、自分の子が幼かった10年前と同じことで今のお母さん方も苦しんでいて、なのにこの10年何も変わってない。」 それは、マニュアル的に同じ対応を繰り返して根本的改善策を講じなかった行政の怠慢でもあるし、 自身の問題がなんらかの形で解決すれば、もうその問題を過去のこと、他人事にしてしまう親の側の問題でもある。
もちろん親たちは日々新しい問題に直面していてそのことで精一杯だから、直接自分の身に降りかからないことについて、継続的に関心を持ち、なんらかの行動をとり続けることは難しい。 それにしても、少なからぬ親たちが毎年同じ時期に同じことで悩んでいるのは、あまりに不毛だ。 こどもの福祉・教育といった分野でこの種の非効率がまかり通るのは、当事者が、せいぜい数年も経てば当事者でなくなってしまうからなんだろう。
自分さえ良ければ、という態度の人間がこのごろ増えているような気がする。 AC(公共広告機構)のテレビCMで「江戸しぐさ」というのを時々流しているが、 例えば「傘かしげ」狭い路地ですれ違う時、傘を傾けて相手にしずくがかからないようにする、なんてのは、江戸から遠く離れた私の故郷でも当たり前にやっていた。 小学校の集団登校で通行人とすれ違う時、上級生を真似て低学年の子もごく当たり前にやっていた。今は区画整理で道が広くなって、そんな路地も消えてしまったけれど。 電車が少し混んでくれば、「お膝送り願います」という人が必ずいて、みんな快く詰めて場所を空けたものだった。今は、大股広げて寝たふりのオジサンと、強引にお尻をねじ込むオバサンが、互いを罵り合っている。 モンスターペアレントはすっかり用語として定着したが、 今は病院や外食産業などいろんなところに「モンスター」がいるらしい。
いや、昔からそういう人はある程度いたのだと思う。 けれども人間関係がどんどん希薄になり、長い不況で実際に生活が苦しかったり、将来への希望や気持ちのゆとりが持てなくなってきている中で、みんな自分のことで精一杯。 それどころか、八つ当たり的に他者を攻撃したりしている。 「自分に直接関係ないコト」にかかずらっている余裕が、誰にもなくなってきている。
そんな中で「障害のある子なので配慮してほしい」という呼びかけは、 ある種の危険すらはらんでいる。 障害児の親として、直接自分たちに関わる問題についてアクションをとっていくということはこれからずっと必要になっていくのだろうけれど、 「自分たちだけが幸せになる」ことを考えていては根本的解決にならないんだと思う。
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