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支援と尊厳 |
3月12日付 朝日新聞「天声人語」より引用
▼「聾(ろう)学校」という名前を、「聴覚特別支援学校」に変える動きがある。学校教育法の改正を受けての措置だという。それに待ったをかける静岡市の山本直樹さん(35)の話が、先ごろ本紙に載った。自身も聾学校で学び、「聾」という言葉に誇りがある▼全日本聾唖(ろうあ)連盟も改名に反対している。学校は長い歴史を持ち、手話などの聾文化を育んできた。さまざまな香りが、その名にこもる。そして「特別支援学校」では、聾者が、支援される低い側に位置づけられると、山本さんは心配する
発達障害児には支援が必要だ、支援してください、と訴え続け、ようやく理解が広まり始めた現状がある。 外見からは分かりにくい障害ゆえに、意識して訴えていく必要がある。それは多分間違いない。 けれど、それは子供たちを「支援される低い側」に押しやる行為なんだろうか。 今まで考えたこともなかった。
支援という用語は、多分英語のHelpにあてた訳語だ。 英語のHelpに、強者が弱者に情けをかけて助けてやる、みたいなニュアンスがあるかどうか、私の語学力ではわからない。 ただ、アメリカで“Visual Helper”という言葉に接した時、日本語の「視覚支援ツール」よりもずっと親しみやすい言葉であるような気がした。 困っている人に寄り添い、手を添えて導く、愛のイメージ。 漢字の「支援」は、支援する人とされる人の間になんだか少し距離を感じる。ちょっと離れたところから、小旗とメガホンを持って声援を送るイメージ。あ、これじゃ支援じゃなくて応援か。 援助という言葉にも、援助交際なんていう言葉が使われたおかげで、ヘンな手垢がついてしまったし。 Special Educationに、「特別支援教育」以外にどんな訳語を当てはめればピッタリくるのか、正直解らない。
聾(ろう)という言葉に差別的ニュアンスが含まれるかどうか、ということが、この改名問題の発端であり争点だろう。 ある差別語の使用を禁じれば、また別の差別語が生まれる。 もともと差別語でなかった言葉に、差別的なニュアンスが生まれる。 だから表面的な言葉狩りは労力の無駄だ。 聾者自身が聾という言葉に誇りを持っているならば、周囲がとやかく言うことではないだろう。
社会的弱者の尊厳を損なわない支援。 子供たちが弱者であることに甘えず、障害という自分の属性を卑下せず、自尊感情を持った大人として生きていけるようにすること。 どのような名称であれ、全ての障害児教育がそのようなものであることを願っている。 バラという名の花は、バラという名でなくても、きっといい香りがするはずだから。
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