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少子化対策は誰のため? |
柳沢厚労相の発言が話題になっている。 「女性は産む機械」発言にはさすがに頭に来たけれど、 「二人以上子供を持ちたいのは健全」発言に対する批判は、なんだか揚げ足取りというか、ピントがずれているように思えてならない。
「産む機械」発言に嫌悪を感じるのは、かつての富国強兵、産めよ増やせよと言われた時代を思い出すからだ。 女性と生まれたが最後、自分のために人生を楽しむことも、自分の意見を持つことさえも否定されて、家族のためにわが身を犠牲にしてただ黙って働くことを否応なしに強制された時代を思い出すからだ。 産み育てることの喜びも苦しみも無視されて、産む女も生まれた子供も機械の歯車かゲームのコマとしてしか見られていない悔しさを感じるからだ。
「国策」として子供を産まされる時代には、二度と戻りたくない。
だが、「子供を持つことは個人の選択」「個人の自由」「行政は介入するな」とあんまり声高に言い過ぎるのもどうだろう。 「はあ解りました、もう政府は手も口もカネも出しませんから、皆さん自己責任で好き勝手にやってください」とでも言わせたいんだろうか、と思ってしまう。
国の政治に与る人の視点がマクロになるのはある意味自然な成り行きで、 少子化は国家の一大事だ、大問題だと思うから、政策として取り上げてももらえる。 「子供を産まない人や産めない人もいるのだから、子供が少なくなって人口が減少しても困らない国家のシステムを作ろう」という発想もあるだろうが、それはすなわち少子化対策をあきらめるということ、全く別の政策を採用するということだ。 少子化対策とは、産みたい人を社会的に支援する、それが個人の要求にも国益にもかなうということではないのか。 そのための制度や技術に論点を絞らないで、産みたくない人にもさあ産めやれ産め産まないやつは非国民だ的なことを言うから、話がおかしな方向に行ってしまう。 産まない・産めない女性も、あえて言うけれど、いちいちヒステリックに反応しないで「私には関係ないわ」と聞き流す強さがあってもいいのではないか。
出生率の裏側にある問題。 「子供なんていらない」「子供はひとりでたくさん、2人3人なんて無理」と女性が口にするとき、そこにどんな思いがあるのか。どんな問題が隠れているのか。 雇用、教育、医療、福祉、ひとりひとりのやる気だけではどうにもならない問題が山積している。 ひとつずつでもいいから、解決していってほしい。 国の少子化対策が、たとえ国民を機械とみなす「不純な動機」に基づいたものであるとしても、それを利用してやるくらいのしたたかさが市民にはあっていい。青臭い反発で議論を空転させることは、結局誰の利益にもならない。これだけ国民の不信を買っている大臣を罷免しない首相の責任は、次の選挙で問えばいいことだ。 いつか安心して何人でも生み育てられる社会が実現した時に、女性は本当の「選択の自由」を得られるのではないだろうか。
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