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同じ景色を見ていても |
うちの家族は自然の中に身をおくのが好きだ。 住んでいる土地柄、山や森へ出かけることが多い。 アメリカにいたときもよく近所の自然公園へピクニックに出かけていた。
だが、植物に造詣の深いあき父と、都会育ちで動物好きのあき母とでは、同じ場所に行っても、興味の対象が全然違う。 「あ、いまそこに○○が咲いてた」と、運転しながらあき父。 「○○ってどんな花だっけ?」 「ほら、白くてフワフワしたヤツ」 「えー、そんなのどこにあった?」 「いまカーブ曲がる手前の斜面の上のほう」 「…っていうか、どうして運転しながらそんなところが見えてるわけ?」 キノコ狩りに林に分け入る。 「あ、また見つけちゃった、パフボール(押すと胞子の粉が飛び出してくる丸いキノコの愛称)」と私。 「食べられもしないのに、いくつも拾ってどうするの」 「だって目についちゃうんだもん」 「そんな小さいもの、なんで見えるのかなあ」
夫婦でも、同じ場所にいても、見えているものは全然違う。 私が流れる雲を見上げている時、彼は足元の花の写真を撮っている。 彼が珍しい植物を指差す時、私の目はその先に止まったテントウムシを捉えている。 私たちに見えているのは、ほんとうに「同じ景色」だろうか。
同じである必要などないのだ。 どちらもそれぞれ真実の世界なのだから。 自分に見えている世界こそ真実だと、押し付けようとすれば衝突する。 歩み寄り重ね合わせれば、世界はいっそう鮮やかに立ち現れる。
自閉症の息子には、いったいどんな景色が見えているのだろう。 彼はまだ、それを私に伝える術を持たない。
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