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いじめ・差別の根本原因に関する考察 |
以前このブログでも映画化案があるということで紹介させていただいた小説「ぼくはうみがみたくなりました」の中にこんな一節がある。 「人は自分の下に線を引きたがる」 (山下さんすみません無断引用させていただきました) 最近いじめ自殺の嫌なニュースに接する中で、この言葉が私の中でだんだんと重みを増してきている。
小学生の頃、「アンネの日記」の読書感想文を書いた。 戦争のない時代に生まれた自分たちは幸せだ、というような趣旨のことを書いたと思う。 それは多分に教師の期待する模範解答を意識したものなのだけれど、書いた自分自身の心の中に、何か違和感というか、しこりのようなものがずっと残っていた。 今になって、その正体が解った気がする。
彼女らに比べれば今の自分の悩みなど取るに足りないと思うことで、現実に自分が抱えている悩みから眼をそらしていた。 あるいは、そらすように仕向けられていた。
たとえば江戸時代の身分制度。 農民たちの不満をそらすために、支配階級の武士たちは、士農工商、さらにその下の階級をでっちあげた。それで農民たちの置かれた現実がなんら変わったわけではないのに、まんまと騙されてうっぷん晴らしの激烈な差別行為をはじめ、現代まで尾を引いている。
所得格差は確実に広がっているというのに、もっと困っている人はいくらでもいると、自分が「負け組」に入っていることを認めたがらないから「自由競争オッケー、格差やむなし」なんて言っている政党に投票してしまう。
級友の些細な違いをあげつらい攻撃対象にすることでしか、自分の優位性を確認できない幼稚さ。それを見てみぬふりする弱さ。
「あいつに比べればまだマシ」 そんな消極的な自己憐憫が、全ての問題の根っこにある気がする。 いつも下を向いて。 強い者は弱い者をさげすみ、 弱い者は、さらに弱い者をいじめて。 いつまで経っても、誰も幸せになれないシステム。
だから流行の二分論はもういい加減やめにしよう。 自分の下に線を引いて慰めにするのはもうやめようよ。 前を向いて。 上を向いて。 下を振り向く時は、そこにいる誰かに手を差し伸べて。 そうすれば、みんなが少しずつ幸せになれるはずなのにと思う。
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