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「自閉症の子達の【感覚の過敏/鈍感】について&◆特異な感覚実例集◆」 |
@chubby_haha さんがツイッターで 自閉症の子たちの感覚の過敏/鈍感について平易な言葉で解説してくださっています。 それに対し、様々な実例が返信として寄せられています。
togetterより @chubby_haha さんによる「自閉症の子達の【感覚の過敏/鈍感】について&◆特異な感覚実例集◆(コメント欄に全文)」 http://togetter.com/li/306882
我が家のあきのすけも、 小さい頃は砂の上に裸足で立てなかったり 外出先のトイレのハンドドライヤーが大嫌いだったり でんぷん糊が触れなかったり 味噌と豆腐は銘柄指定だったり イロイロありましたねえ。
いまでも話しかけた時の反応は鈍いですが Qちゃんの「のべつまくなし高周波音おしゃべり攻撃」に耐えているのはすごいと思います。 成長して、過敏から鈍感にシフトしたのかな?
私の方が、子どもの出す突然の音によくビビッて耳ふさぎしてるので 「アンタの方がよっぽど過敏じゃん」とあき父に言われております(笑)
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病気と障害 |
「Qさま!」というテレビ番組の中で クイズの解答として自閉症を病気として扱い、提示されたイラストも不適切だったとして 抗議を受けて番組HPでお詫びと訂正があった、という事件があった、らしい。
我が家は基本ゴールデンタイムにテレビを見ない家なので 直接視聴していなかった件についてコメントはしないつもりでいたのだけれど
実は火曜日に親の集まりがあって、先輩ママさんから「こんなことがあったんだよ」と教えていただいたのだけれど 私自身はそれほど憤りを感じなかったんですね。 まあ、一番は直接観ていないからなんですけど。
あきのすけの療育手帳を、更新判定の結果返納させられることになって 精神障害者保健福祉手帳なら取得できますよって言われた時
「え…でもそれって、いわゆる“こころの病”の方たちのための制度だよね?」 「自閉症は心の病気じゃない、って、これまで一生懸命訴えてきたことに逆行するんじゃないの?」
そういう迷いがありました。
「自閉症は医学的には、ICD-10(国際診断分類)で精神疾患に分類されているんだから、 堂々と申請していいんだよ。」 と言われて、ナルホド。と思って。
そして迷いが生じるのは、私自身の中に、こころの病の方々への差別意識があったせいではなかったかとも思い。
一見して解りにくい、理解されにくい、発達障害の子の持つ生きづらさは むしろ彼らと共通する点が多いのかもしれないと思うようにもなり。
申請して、手帳をいただいて、ときどき提示して。
だから私の中では 病気と障害を目くじら立てて区別することにどれだけ意味があるのだろうかと思うのです。 疾患名として××障害という言葉が使われさえするのですから。
改めて「何が違うの?」と 若いお母さんや、障害者に縁遠い方々に どうやったら解りやすく説明できるのか。
思うに、 「病気」の反対語は「健康」です。 「健康」という好ましい、望ましい状態の対極として「病んでいる」状態がある。 それは可及的速やかに解消されるべき、有り得べからざる状態である。
その「有り得べからざる状態」という視線を一生涯浴び続けなければならないこと、 自分の属性を常に否定され続けること、 それがどんなにつらいことであるか ほんの少しだけ想像力を働かせてほしいのです。
「障害」の反対語を挙げるなら「健常」ですが この両者に「病気」と「健康」ほどの厳しい対立関係は、少なくとも私は感じません。 それは、この両者は単に異なる状態像を示しているに過ぎず、 相互に入れ替わることが想定されていないからだと考えます。
正確には、健常者の方が事故等で障害者になることもありますし 精神障害などはいずれ治癒することもあるでしょうし うちの子みたいに知的障害の定義から途中で外れるケースだってあるわけですが
少なくとも障害者に対して健常者に「なれ」という圧力をかけるのは非道なものとみなされるのが いまの社会だと思います。
けれども発達障害を「病気」であるとしたとき そこには「治療して健康になるべき」という圧力が生じます。 全ての困難の原因が「病気」の二文字によって 「患者」自身に帰せられてしまいます。 「治療」すれば困難はなくなるんでしょう?と。 そして「治療」なんだから医療の守備範囲だよね、病院行って薬でも飲めばいいんだよね、 でも有効な治療法が見つかってない不治の病なんだから、諦めるしかないよね、って。
それじゃあ誰も幸せにはならないでしょ?
「障害」という、特定の機能が恒久的に欠けた状態であるならば それを補うための方法を考えるでしょう。 車椅子や義手・義足、補聴器、白杖や点字、ペースメーカー、人工喉頭etc. 特定の機能が欠けた状態は存在し続けるけれど それも含めての自分なのだと 私はこのままの私として、より良く生きるために何ができるかを考えていいのだと
そう思いたいのです。 そう思ってもらいたいのです。
だから 現時点で治療法のない病気だと涙にくれている若いお母さんには 私はやっぱり言い続けると思います。 自閉症は、病気ではなく、障害だよ、って。 それは「有り得べき状態」という呪縛から彼女を解き放つ助けになると信じているから。
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Excuse me.っていい言葉だなあ |
少し前のことですが。 家族で近所の公園に花見に行きました。 屋台でクレープを買って、空いていたベンチに子ども達を座らせて、 私とダンナは立っていました。 ケアしてないと、ふたりともうまく食べられないので(^ ^;)
しばらくして、60代ぐらいとおぼしき上品そうなご夫婦がやってこられて、 ベンチの残り半分、空いていたところに、スッと座られたんです。
無言で。
いえ、座っていただくのはちっとも構わないんです。 ただね、これって普通、「ここいいですか?」とか ひとこと断る場面じゃないのかなあ、って。 それほど常識なさそうな方々にも見えなかったので。 それとも我々の方が、言ったら逆ギレされそうな人種に見えたのかしら?苦笑
新聞で時々「無言社会」って言葉を見かけるけれど ホントだったんだ、と思った出来事でした。
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生きる手応え |
ツイッターで流れてきました。 東京大の福島智先生のメッセージ 障害のある受験生のみなさんへ http://ds.adm.u-tokyo.ac.jp/nominate-student.html
18歳の福島先生と、お父様のやりとりが記されています。
「無理して大学なんか行かんでもええ。好きなことしてのんびり暮らせばええやないか。これまでおまえはもう十分苦労した」。
「そんなのは嫌や。僕にも生きがいがほしいんや。僕は豚とは違うんや」。私は強い口調で言い返した。
安住の地、安楽な未来よりも、不安ではあるけれど、手ごたえのある道を選びたかったということである。あれから28年が経過した。この間、紆余曲折の連続する茨の道だったともいえる。しかし、生きる上での手応えはあった。
ああ、そうか。 オランダに住むか、イタリアを目指すか、 選ぶのは子ども自身なんだ。
このぐらいでいいじゃん。って、親が勝手に線引きしちゃいけない。
「うちの子がそんなに賢いわけない。 一族に理系の人間なんかいない。 遠くの大学なんか受ける必要ない」 そんな親に反発した、自分自身を思い出す。 18歳って、そういう年頃なんだなあ。
ただね。 どんなにしんどくても、 自分で選んだことなら、自分で落とし前つけろよ。息子ども。
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